見法寺700年の歴史

鎌倉時代、文永11年(1274年)、宗祖日蓮大聖人は佐渡ヶ島への流罪を赦免され、鎌倉を離れ身延への入山の際に甲斐の国を弘通された。同年5月下旬、聖人は当日野村に三日三晩留まり、朝倉丹後及び村民に対して法華経を教化して回った。そして井水の湧く場所が一軒あり、聖人はそこで休息され、大きな石の上にて説法とお題目「南無妙法蓮華経」を唱えられた。

『本化別頭仏祖統紀』によれば、その時に何かと聖人を世話した宿の主人がのちに身延に隠棲した聖人を訪ね、そこで教化され檀越となり、向井の氏を賜る。向井氏は宅を捨てて寺を建立したと記している。この地は現在の八日堂と高座石である。

その後、『大観』によれば元弘2年(1332年)3月15日、身延山久遠寺四世、大法阿闍梨日善上人がこの地を訪れ、宗祖の霊跡であるとして、その遺徳を万年までも流布しようと考えた。その際に石光山見法寺という山寺号を賜ったのが当寺である。日蓮大聖人が当地を訪れてから67年後の興国2年(1341年)3月、当寺が創立された。

安永7年(1778年)11月と文化2年(1805年)5月12日に当寺は再度にわたって火事に遭い、堂、伽藍、宝物、記録書類といったものは全て消失している。その後の文化4年(1807年)に本堂、庫裡を再建。次いで七面堂、稲荷堂、釈迦堂、妙見堂、および拝殿等諸堂の建設と伽藍の営繕を行い、現況を成すに至る。

境内には樹齢150年以上のエドヒガンザクラ、身延山から賜ったシダレザクラが4月8日のお釈迦様の誕生日「花祭り」に合わせて満開を迎える。

本堂の特徴として、江戸時代の火災から再建する際に日蓮聖人の一代記となる欄間絵を基本として本堂全体が設計された。欄間絵には2つの特徴があり、1つは両面が絵になっている。外側は水墨画で如来様や菩薩様が描かれていて、内側は日蓮聖人の一代記が天然色で描かれている。外側は太陽光が当たるので、あらかじめモノクロとなっており、内側にカラーの絵が配置されている。2つ目の特徴として入り口から奥に行くにつれて横幅が長くなっている。本堂に入った際に広く見せる為の錯覚効果がある。

須弥壇には一塔両尊・日蓮聖人坐像をはじめ法華経勧請の神仏が祀られております。また貞享2年(1685年)に執筆された御曼陀羅などが展示されている。